人は不思議な者だ。社会は不思議なところだ。いや、日本は不思議な国だ。
人々はどこかで有名な人にあこがれ、無名な人を冷たくあしらう。有名な人にはちやほやし、無名な人には目も向けようとしない。有名な人には劣等感を持ち、無名な人には優越感を持つ。社会の言う有名な人、また無名な人とは一体何なのか?どれだけのホームランを打ったか、どれだけのゴールをアシストしたか。どれだけのタイムが出たか、どれだけの票を集めたか。どこの大学を出たか、どのような教育を受けたか。どれだけの実績を持っているか、どれだけ稼いだか。何勝したか、どれだけ相手を負かしたか、何を成し遂げたか。いつの間にか教会という場所も、どれだけの人数がいるか、何時間祈ったか、どれだけ断食しているか、いくら献金を捧げたか、どれだけ奉仕をしたか、どんな奇跡が起こったか、ということに目を向けている。また、自分がどんなにひどい人間でどんなにひどい事をしてきたかと、過去の誇れない誇りを謙遜を装って、いかに己がすごいかとイエスを証する場で宣伝している出たがりやもいる。イエスには有名も無名もない、出会う一人一人を大切にして行く。空気や太陽や雨は良い者にも悪い者にも注がれているように、全ての人々は神に造られ、生かされ、愛されているのである。誰がすごいとか、すごくないとかではない。十字架に俺たち罪のためにかかって死んで、よみがえられ、今も俺たちのそばに、いや俺たちの心に一緒に生きてくれる、このイエス・キリストこそすげえ奴である。人をほこり、またけなすのをやめて、もっともっとこのすげえ「イエス」を誇ってみてはどうか?
人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。 (バイブル)
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